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以下に記した5つの企画が、私が福岡でやってきた主な企画です。

 他にも3回の2研公演、2回の演劇部公演、2回のクリスマスパーティー、八女元気!計画関連の行事など色々ありますが、それらでは私は「用意された場」で仕事をしたにすぎないので、ここでは取り上げませんでした。それでも、これらの企画が自分にとってとても大切な時間だった事は、言うまでもありません。これらのおかげで自分の発想力と実践力を育ててもらったようなものだし、何よりその仲間が自分にとって一番大切な人達だから。



 私は、自分が企画してきたことを自分なりの「デザイン」として捉えている。

 かつて私が手にした大学案内に、「芸術工学」=「魂を喜ばせる設計」、と書かれていたのを覚えています。技術のための技術ではなく、人間にとって本当に必要なものを創り出すための知恵が芸術工学なのだ、そしてそれこそが真の「デザイン」なのだ、と。
 しかし芸工大に「芸術工学」を体得している人が一体どれだけいるだろうか。少なくともそれを学生に教えられる教職員は、限りなくゼロに等しいと思っている。だから私は、自分達で「芸術工学」の根幹を体得するためのプログラムを考え、それをカタチにしてきた。勿論すべてが成功だったとは思わない。しかし、私は計り知れない価値を秘めた事をやってきたと自負している。それらはその時だけのものではなく、また自分一人だけのものでもなく、様々な人達の間で時間をかけて成長していくものだから。
 私は、芸工大を本当に「芸術工学部」にするための「デザイン」、つまり「魂を喜ばせる設計」をやってきたつもりだ。それらは同時に、本当に人間にとって必要な知恵を持った人間を育てるためのデザインでもあるのだから。

 私は様々な種を蒔いた。彼らが芽吹くかどうか、次の種を抱けるかどうかは今はわからない。残念ながら自分が出来るのは種を蒔くだけなのだ。芽吹くのは5年後かもしれないし、10年あるいは20年後かもしれない。芽吹くかせるかどうかそれ自体も、その土が決めることだ。私には決められない。しかしそれでも、蒔かれなかった種は芽吹く事は出来ないから、自分に出来ることだけでもいいから、やろうと思った。



 私は、「芸術工学」という視点に、本当に可能性を感じている。
 だからこそ、本当の力を発揮してほしいと思っている。
 残念ながら今の自分には、その力を引き出す能力がない。
 力不足を、痛感している。
 目覚めていないのは、芸工大だけではなく、自分自身も同じことなのだ。
 私が企画したものは、眠れる獅子を目覚めさせるためのものだったが、同時に自分自身の能力を高めるためのものでもある。自分が目指すことのために今何をしたらいいのか、誰も私に教えられないから、自分で見つけるための経験の場としての意味があった。

 だから、これからするべきことも何ひとつ変らない。
 誰も知らないのだから、自分で見つけるしかない。
 自分自身への教育プログラムを、自分自身で「設計」するしかない。

 芸術工学を体得するための道。
 自分が選べる道は、いくつもないのだ。
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by Sterun-schnuppe | 2005-07-05 00:20 | Portfolio
 絶望の淵を彷徨いながら、最後の時間の生かし方を模索していた頃、私は芸工大留学生会(KUDOSU)と結託して、2005年1月末の留学生芸術祭の企画に本格的に取り組み始めました。大橋駅の地下飲食店街の通路を使った一週間の展示会、大学のホールでの民俗芸能ライヴが、その内容です。
 展示会には、CG作品、絵、写真、ポスターデザイン、書、卒研発表ボードなどの作品を展示。またライヴには、アジアから遠くはアフリカまでの歌、踊り、演奏など10組が出演してくださいました。

 余談ですが、ライヴで私はディレクターをやってまして、色々よくわからん事が多くて困ってました。サークルと連携したイベントを仕切るのは、実はあれが初だったんですね、意外と。不十分な説明でもきちんと仕事してくれたTRP、照明屋、RecLabのみなさん、ありがとうございました。

 なぜ日本人の私が留学生会と一緒に仕事をしたかというと、私が井尻寮寮長である事、地域ぐるみでの活動を計画するような人間である事から、もともと友人であった留学生会会長から役員会で顧問をやってくれとの依頼を受けたのが、そもそもの発端でした。


 芸術祭自体はこの時が3回目。ただ前2回は多次元ホール2階のみでの開催だったので、学内生ですら知らない人も多かったことと思います。
 私がこの芸術祭(特に展示会)を企画するした時のそもそもの着想は、「しかしそれでは意味がない」というところにあります。
「もし本当に作品を見て欲しいのなら、ただ開催すればいいというものではない。その相手の所に行かなければダメなんだ。」
 こうして、私は町中での作品展示会を計画し始めたのでした。

 まつりおおはしで得た大橋地区との人脈を使い、留学生会会長とともに知り合いの商店街会長のところへ。要旨を説明して場所について相談し、その人の紹介で駅地下の西鉄名店街にたどり着いたのでした。
 名店街の職員さんは予想外に好意的で、一週間の場所使用を快諾。さらに展示用の大きなパネルまで手配してくれました(しかも、全て無料で。西鉄さん、本当に感謝です!)。こうして駅地下での町中展示会が実現したのでした。
(私が音響の口頭諮問を受けずにやっていたのはコレです)


 この展示会で重視した事は、なによりも「町中でやる」ということ。
 私達は大学生です(しかも公立)。社会のお金で育ててもらっているんだから、社会に対して還元できるものは還元しよう、という発想がありました。しかしそれ以上に大切な事は、自分達が何をやっているのかを少しでも近所の人達に理解してもらう事。南区住民でありながら芸工大を知らない人、あるいはキャンパスを病院か高校かと勘違いしている人、結構います。芸工大はそれくらい対外的な活動に乏しいのです。近隣住民からの理解があってこそ、大学の活動も充実させられるというもの。相互の理解のために、まずはこちらから乗り出そう… そのひとつとして、町中での展示会を計画しました。


 開催期の一週間、ほとんどの時間をこの企画に費やしていたおかげで、通り行く人たちの反応を直に感じ取る事が出来ました。普段はあまり「作品」というものに触れないであろう人達が、とても興味を示していました。
 名店街で働く人達、買い物に来た人達、食事をしに来た人達、通りがかりの人達…
 それこそ小・中・高校生からお年寄りまで実に幅広い人達が、ふと足を止めて、まじまじと眺めていくのです。学生作品と言えど(あるいは学生作品だからこそ余計に)人を楽しませる能力はしっかりとある。むしろ町の人達に与える影響すら、そこにはある。これを実感した一週間でした。


 学生とは社会の責任から隔離された存在である、と以前聞いたことがある。
 これは「学生は社会から切り離された存在である」ではない。
 確かに学生は社会の「責任」から切り離されている。猶予期間を与えられている。
 しかし学生にも、社会の中での「役割」というべきものは存在している。
 学生だから出来る、学生にしか出来ないことが、たくさんあるのだ。

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 実はこの企画にはオマケ話がありまして、九大六本松の事務局からの取材を受けました。とてもおもしろいから記事にしたい、との事でした。そんなこんなで、九州大学高等教育研究センター(あってるかな…)広報誌 "Radix" に見開きページを頂くことができました。記事採用が決まった時は、床を転げまわって本当に喜びました(笑)。3年生後期はほとんど授業に出てない、いわば落第生の企画が九大事務局の広報に載っているんだから、おもしろいもんです。しかも「太田一彦(芸術工学部4年)」ってなってるとか。

 ごめんなさいね、私は4年生にはなれていないんです。
 それとも、名誉4年生ですか(笑)?
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by Sterun-schnuppe | 2005-07-04 23:31 | Portfolio
 火祭りとは何なのか… 芸工大の学園祭で最後を飾る踊り。しかしそれだけではない。火祭りは、30年に渡り芸工大の魂ともいうべきものを担ってきたものである。

 私は、芸工大最後の、というより、新九大最初の火祭り代表の任を引き受けた。2年生の6月から3年生の11月までの1年半、自分なりに全力で臨んだつもりだ。
 ただ私は、「火祭りのための火祭り」をするつもりは一切なかった。目指す世界があり、そのために火祭りが「必要」だと感じたからこそ、それを引き受けた。0研や「まつりおおはし」も含め、自分が火祭りの代表の地位に立ち、様々な場所での発言権と影響力を持つ事が、大学や学生をより良い世界へ導くためのベストな選択だと判断してのものだった。


 初めて「火祭り」というものに触れた1年生のとき、私はその打ち上げでこう発言したのを覚えている。

「一生かけて探そうとしていたもののカケラが、火祭りの中にあったように感じました。でも今の火祭りでは力不足なんです。」

 私が火祭りに見たものはなんだったのか。

 巨大な火櫓を囲み、数百の人達が踊る。ただ太鼓のリズムのみで、2時間以上に渡り、それこそ子供から大人までがただひたすらに踊る。様々な個性を持った様々な人達が、ひとつの大きな輪になって、強大なパワーと輝きを放っている。

 私はこの中に理想の世界を見たのだ。全ての人達が、持っている技も知恵も主張も違う人達がひとつの輪になり、一体となる世界。
 私が芸工大を素敵だと思うのは、その中の人間関係の豊かさにある。それは没個性的ではなく、むしろ皆が個性的であるからこそ、逆にお互いを刺激し合い、尊敬し合い、成長させる関係。
 火祭りには人と人を繋ぐ力があると感じている。博多どんたくや九大祭(plusG)の時のように、初めて出会ったもの同士をも結びつける、何か根源的な力を秘めている。だから、私は火祭りは芸工大の象徴であり、同時に根幹であると捉えている。


 ところで私は、火祭りと芸工大をあまり区別なく捉えている。結局のところ、両者は同じ学生達が中心になって形作っているものだから。
 そのことを踏まえたうえで、私は火祭り(そして芸工大)には足りないものがあると感じている。火祭りは力不足なのだ。とても強い力を持つ輪を生み出す代わり、その輪の外の人が感じる壁は、厚く高い。より多くの人達に開かれたものになるには、まだ未熟なのだ。
 外の世界を見る視点。自分達のいる場所、周りとの関係を感じ取る視点。それさえ手にすれば遥かに高い次元から物事を創っていけるのに、内輪といわれるように、その視点を欠いている。火祭りを、芸工祭を、そして新九大をより高い能力を持ったものにしていくために、私は0研、まつりおおはしという「経験の場」を用意した。「外の視点が必要なんだ」なんて、言葉で言っても知識を与えても変わるものではない。感動を伴った「生きた経験」でしか人はかわらないのだから。


 しかし2004年11月、迎えた芸工祭第一回。私は決して嬉しい気持ちにはなれなかった。たしかに各学祭企画の公演は良い出来であったかもしれない。私がやっていたもうひとつの企画、2研企画"cue"も、評判が良かったし、火祭りも盛りあがった。しかしそんなもの、そんな程度では、自分には大した意味は持たなかったのだ。0研やまつりおおはしを踏まえても、知恵を振り絞り全力で望んだ自分の1年半をかけても、出来上がってきた「学祭企画」そのものは、願っていた姿には程遠いものであった。企画の壁を越えた発想や、客という外の人達をきちんと意識した発想は、一体どれ程生まれたのだろうか。




学祭を終えて、私は倒れました。
極度の疲労と果てしない敗北感。
そして自分の無力さを痛感し、絶望。
1ヶ月の間、立ち直る事はできませんでした。

もう選択の余地はない…

わずかな希望にすがり、日本を離れる決意をしたのは、この時でした。
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by Sterun-schnuppe | 2005-07-01 21:57 | Portfolio
 芸工大(現九州大学大橋キャンパス)のある町、福岡市南区大橋。ここに「まつりおおはし」という地域の夏祭りがある。大橋商店街連盟を中心に、8月の初め2日間にわたり、大橋駅前で開催されている。昨年2004年の8月、私は芸工祭スタッフを引き連れて、この祭りに飛び込みました。

 私が学祭スタッフと「まつりおおはし」スタッフとの関係を築こうと思ったのは、2003年6月のこと。舞台やイベントを創造する学祭スタッフと、自分たちの町をより良くしようと新たなネットワークを創造する市民団体との間に、何か新たな関係が生まれるのではないかと考えた私は、インターネットで南区の市民団体を調べたり、南区役所に出入りして情報を収集していました。そんな中、八女元気!計画での自分の経験を生かせる「地域の祭り」との連携を第一の出発点に選び、その後の構想を練っていたのでした。


 1年目(2003年)は、まず相手を知ろうと単身乗り込む事にして、1ヶ月ちょっとにわたり実行委員会に通いつめました。ところが予想外に仲良くなってしまったので、急遽、火祭り隊残留を決めてくれていた6人を呼び込み、当日と前後の4日間、ともに汗を流したのでした。これならいける… そう思った4日間でした。

 翌2004年、自分が学祭企画頭会議に出られるのをいいことに、みんなをそそのかして「学祭の広報活動」として正式にまつりへの参加を決定。当日は試験期間中であるにもかかわらず、総勢40名を越す芸工祭スタッフが参加してくれました。準備作業のあまりの早さに、まつり実行委員が唖然としていたのは、言うまでもありません。
 参加した人達から「楽しかった」と言ってもらえた時は、私は嬉しくてたまりませんでした。本当に、みんなありがとう。


 この祭り、27年目にして初めて、芸工大生がスタッフ参加したと聞きました(つまり私たちはパイオニアです!)。こんなに近所にあるのに、なにか不思議な感じもします。この2年間で町の人たちの心に、新たな芸工大生像が刻まれたことでしょう。当日のアンケートで、「学生たちの一生懸命な姿が印象的でした。」というものが数多くよせられており、このことを物語っています。



 さて、ではなぜ市民団体との関係を築こうとしたのか。
 私がこの構想を練っていたのは0研と同時のこと。つまり目指すは、統合後の未来。新大学を創るにあたり必要なものを、私は学外に求めたのでした。

 人間の能力を伸ばす2つの要素があります。「能力を発揮する場」と「その能力を必要としてくれる人」。まつりおおはしでいう「まつり」が場であり、「実行委員」そして「来場客」が人にあたります。

 今もし学生と社会の間に「生きた」関係が築け、そして続いていくなら、学生が学生の身でありながら社会の中で活躍し、より多くの視点、より高い能力を身に付けていけるシステムが出来る。そしてそれは、「誰かのために何かをする」という、デザインの根本的な精神を育むものでもある。
 また社会の中で、つまり他人の視点を深く感じながら活動していくことで、「自分はどこにいる何者で、どんな能力をもっていて、これから何をしていけばいいのか」ということを考えるキッカケを、そして答えのヒントを数多く生み出すことが出来る。そしてそのヒントは、誰か一人の個人的な考えを植えつけるのではなく、様々な人と人との関係の中から生まれてくるという、理想的な形で生み出される。


 将来の大学を、まだ見ぬ後輩たちをより素晴らしい能力を持ったものに育んでくれる社会的な「システム」の発端を、私は「まつりおおはし」を通して切り開こうと考えていたのでした。
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by Sterun-schnuppe | 2005-06-29 23:46 | Portfolio
 あの時期(plusG本番直前、chripa2003 1ヶ月前)に寮長を引き受けようと思うなど、普通に考えて正気の沙汰ではない。身体に無理をかけることは、容易に想像できていた。
 それでも寮長をやろうとおもったのにはわけがある。
 私は寮に恩を感じていた。そして、魅力を感じていた。100人もの大家族でありながら、その中に人間らしい交流がある。ほとんどの人が部屋の鍵をかけないくらい、深い信頼関係がある。そんな魅力ある寮を、先の見えぬ大学統合の先へと残していくには、だまっていてはダメだということは明白。もしそのために自分が何かの役に立つのなら、もし必要とされているのなら、たとえ忙しくなり身体は厳しくなろうともやろうと思い、寮長に立候補しました。

 井尻寮に対し、私は魅力と同時に不満も感じていた。「井尻寮は井尻寮だ。他は関係ない。」という意識が少なからず寮の中にあったように思っていた。断じて違う。井尻寮とて、他との関係の中にしか存在できない。たとえば近所からの苦情を気にしないというのは、ただのガキだ… そういう不満があった。
 私は、ある意味一番寮生らしからぬ寮長だったかもしれない。きっと私のことをよく思わなかった寮生も多いことと思います。しかし私は、あえて「らしからぬ」発言をしていた部分も多いので、いたし方ありません。たとえ共感されなくても、少しずつでも、そういう視点を盛り込んでいく事が自分の仕事だと考えていました。


 しかし大学統合による変革は予想以上に大きく、見通しの利かないことや突然涌いてくる数々の問題に何度も悩まされました。煩雑な仕事と重いプレッシャーに、何度も潰れそうになりました。誰か甘えられる人がいるわけでもなく、自力で立ち上がるのに必死でした。
 現寮長から言われたとおり、私は仕事を上手くこなせていませんでした。元々事務的・計画的な作業が得意でない上に、重圧感による苦痛で、最低限をこなすので精一杯でした。副寮長のおかげでなんとかなったものの、良い仕事をしたとは、口が裂けても言えません。

 他のプロジェクトの関係で寮にいない事が多かったのも加わり、かつてなく「寮生らしからぬ寮長」であったかもしれません。井尻寮のためだけに多くの時間と心を捧げることは、私にはできませんでした。この事に非難を受けても、私は弁解することは出来ません。


 旧寮務のみんな、苦労かけました。寮生、学務課のみなさん、心配かけました。そして現寮長、現寮務、きっと苦労は多いと思うけれど、よろしく頼みます。
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by Sterun-schnuppe | 2005-06-28 20:57 | Portfolio
自分にとって、一番大きな存在。zero-ken。

 2003年10月、福岡の2大学、九州芸術工科大学(芸工大)と九州大学(九大)の統合が行われた。芸工大の中には反九大生も多く(自分たちは自分たちだ。そこらのとは違う。…という意識)、また九大の中には、統合の事実すら知らない人も多く、そのままでは誰も喜べない結婚になってしまうと思われていた。統合後の学生の配置(たとえば、1年生はほとんど大橋に来ない、とか、教養科目は全学統一で行う、とか)ゆえの不安も多かった。
 はたして九大芸術工学部1期生はどんな人間なのか…
 その後の大学はどうなっていくのか…

 そんな中で、少しでもよりよい未来を切り開くために、芸工大学園祭企画のメンバー有志により結成されたのが、0研 plusGである。芸工大の魂を伝えるため、空間展示、巨大な美術装飾、学生映像作品の屋外上映、もち屋を使っての大学紹介など、数々の企画を携えて九大に乗り込んだわけである。

企画内容の詳細は、ここでは省略します。
誰かplusedGのIllustlatorデータもってたら、今度ください。


 0研は目的のある企画でした。0研が目指していたのは、2003年11月の九大祭ではない。もっと遠く、新九州大学であり、その学生であり、彼らが将来創っていく世界こそが、その目標でした。0研のための0研なんて小さなものではないのです。
 私がこの0研を構想していたとき、実は本当の目的は3つでした。これを、ここに公開しようと思います。

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壱: 九州大学に芸工大を紹介する。
 今更詳しくは書きません。統合相手である九大に、自分たちのことを知ってもらうこと。そして、新九州大学の種というべきものを、蒔いてくる事。


弐: 全学祭企画からの有志で一つの企画として行動を共にする事で、それまでの企画の枠を超えた、もっと大きなネットワークを構築する事。

 複数存在する学祭企画どうしは、これまでどうしても企画の壁を越えられませんでした。お互いの情報を公開することはなく(同じ建物で活動しているのに)、その壁の中に閉じこもってしか活動していませんでした。その壁を越えれば、より大きな視点で物事を発想できるようになるのに、そういう発想をなかなかもてない。それを打ち砕くキッカケを0研で与えよう、というのが狙いのひとつでした。


参: 九州大学、九大生という「外」の世界をしっかりと意識する事で、自分と他者との関係や、その中での自分の立場、能力、役目を悟る感性を養う事。

 内輪ネタといわれるように、芸工大生は外の世界に対しての意識が薄い。ならば、九大という外の世界と強制的に対峙させることで、外の世界に対しての感性を磨くことが出来るのでは、と考えたのです。たとえわずかでも、そういう機会を作ることが必要だと思い、そういう機会として0研を設定していました。

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 私は、0研企画は芸工大の歴史の中でも上位に入る価値ある企画だと思っています。なぜなら、本当に「目的」を持った企画というのは、非常の珍しいといえるから。学園祭企画は確かに凄いものをつくりあげているけれど、「学園祭」という用意されたステージでやっているにすぎない(それでも、そこいらの安いイベントなど遥かに凌ぐ高水準のものだという誇りはある)。0研は、その活動内容の全てを、まさにゼロから切り開いていった企画。大学統合という大きな節目に生まれた、とても貴重な企画なのだと思っています。
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by Sterun-schnuppe | 2005-06-27 21:02 | Portfolio