火祭りについて(芸工祭その弐)

 
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 福岡市南区の九大・大橋キャンパスには、旧芸工大時代から30年以上に渡り続けられてきた「火祭り」というものがあります。主として巨大な火を囲んで数百の人間が踊る行事のことで、現在は学園祭の最終夜に行われるのが通例。
 2003-2004年には私自身も代表を務めた火祭りですが、様々な変遷を遂げてきた上、またそのコンセプトについては十人十色、百人百様の解釈があるので、歴史も含めここでは詳しくは触れません。

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 今回は大学を去って以来3年振り、初めて一歩おいた立場から見る火祭りであり、また同時にOBとして現役メンバーをサポートしつつ見守る立場での参加でした。枕木を積み上げた火櫓(ひやぐら)を見上げると、やはり自分が必死になってやっていた当時の記憶も、走馬灯のように蘇ってきます。
 ちなみにOBの仕事は、応援部隊として爆竹等の演出、火の管理、火祭り中の会場警備などが主です。学園祭の舞台美術で使われた木材を火櫓に収め、火を放つ準備をしていくのも重要な仕事。


 現在の火祭りの様子を簡単に紹介すると、初夏の博多どんたくパレードでのパフォーマンスも含め、学園祭「芸工祭」の主要企画と活動の基盤を共にしています。芸工祭そのものも、火祭りによって始まり、また火祭りによって幕を閉じます。

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d0014524_2215992.jpg 開会式では、火祭り隊によってキャンパス内に火がもたらされ、また彼らの踊り/儀式が開会の合図でもあります。最終日は、夕暮れを迎えたキャンパス内に火祭り隊が現れ儀式(最初の写真)を行い、松明(たいまつ)を手にグラウンドへと向かい、中央の巨大な火櫓に火を放つ。学園祭のスタッフ、その他の学生、一般市民が火を囲み、ただ太鼓の音と人間の吠える声を響かせ、2時間に渡る「火祭り」が繰り広げられ、芸工祭はその幕を閉じます。


 ここで、今回の火祭りを通して私が感じたことを書き記すことにします。まず、やはり火の力は巨大であるということ。眼前に巨大な火柱が上がるインパクトは、日常をはるかに超えたものであると思います。そしてその火はただの光ではなく、強い熱を帯びた存在でもある。こういう表現で正しいのかはわかりませんが、生命の根源のような力を秘めているからこそ、それを前にして人間は、畏れ、興奮、あるいは感動の念を抱き、古き時代から現代に至るまで、神聖なる存在として火を扱ってきたんだと思います。悪いけど、LEDやホログラムで代用できるようなものではありません。本物の火の価値を再確認できたのが、今回の一番の収穫でもあります。
 そして、今回OBという立場で輪の中に入り、まさにその火櫓の火を管理していたわけですが、周りを取り囲む人間の輪の力を強く感じてもいました。大勢の人間のエネルギーがひとつになり強烈に響き渡る世界は、感動的ですらあります。あの頃、自分が感じ目指していたものは、やはり間違いなかったんだと実感していました。

 同時に、疑問に思わざるを得ない点もありました。火祭りに参加する(少なくとも中心的な参加者である)芸工祭スタッフ達は、火祭りを一体どんな存在だと認識しているのだろうか、という点。それは同時に、火祭りの存在意義を問うことでもあります。
 自分がいた頃は客観的には見らなかったことを踏まえても、今回見た火祭りでは、その輪がかなり早い段階で崩れ(そもそも火祭り隊以外が加わった段階から奇麗な円にはなれず)、学園祭の自分たちの企画内、あるいは知り合い同士程度の小さな輪が点在していました。あっという間に輪から離れ、単に知り合い同士で群がってしまう人も数多く見受けられました。一部の人間は、最後には小さな輪に結集して踊り通していたものの、本気で(少なくとも意志を持って)火祭りに参加している人間は、圧倒的に減ったのではないかと思うのです。
 もちろんこれは私自身の火祭りの定義から判断したものでしかなくて、もし彼らにとっての火祭りが、ただの打ち上げ程度のものであるなら、この程度の意識でもまったく当然のこととも言えます。むしろ真剣に取り組むなんてバカじゃない?とすら言えるわけですから。

 しかしここで、考え直して欲しいことがあります。もし単なる仲間内の打ち上げとして火祭りをやるとしたら、それは愚かなことだと私は思います。どうせ小さな仲間内で(しかもわずかな時間)しか盛り上がらないなら、わざわざあの場に集まる時間は無駄ではないのか? もしあれが脱力の打ち上げであるなら、それを必死にやっている火祭り隊は、ただのピエロなのか? そもそも単なる打ち上げに、あの巨大で危険な火は必要だろうか? 知らない人も多いと思いますが、火祭りをやる為に消防署にまで届け出をしてるんです。学務課への負担や近隣住民への迷惑度も、決して小さくはないはずです。火祭りに必要な投資や苦労と実際の効果を比較してみれば、打ち上げとして火祭りに臨むのは、果てしなく愚かなことだと私は思います。
 もし実際そこにいる参加者達、その中心である芸工祭スタッフ達が欲するのがただの打ち上げなら、それは全く構わないけれど、それなら火祭りなんてさっさとやめた方がいい。もっといい打ち上げのやり方が絶対にあるはずです。

 けれど私は、自分たちが何をしているのかをきちんと認識し直して、その上で、やはり火祭りを続けていって欲しいと願っています。あるいは、火祭りを超えるものを生み出していって欲しいと。
 なぜ数ある企画の中で火祭りだけ30年も続いてきたのか。火祭りが秘めている価値は一体何なのか。そのことを問い直して、その上で、続けるのかを考えて欲しいと思います。

 火祭りは、お膳立てされて招待されるパーティーのような代物ではありません。その輪に加わる人間は、すべて「主体」なのです。

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 伝統を重んじることは、コピーすることではない。むしろ火祭りに伝えていくべき極意は、コピーせぬこと。あらゆる角度から考え直すこと。自力で考え抜くこと。

 願わくば、30年の「伝統」が、悪しき足かせにならぬことを。
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by Sterun-schnuppe | 2007-12-03 00:14 | 考えること